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水OK? [イスラーム]

倫理の課外授業で、断食は水もだめだと説明したが、「水はいいのではないか?」という(事実関係をめぐる)議論が提出された。オリンピックのときに水を飲んでいたような気がするというのが論拠である。

まず手元にあった東京堂の『イスラーム辞典』を調べたが、それに関する言及はなかった。次に、平凡社のウェブ版『イスラム事典』を紐解いてみた。それには、一切の飲食が禁止され、つばや喫煙もだめとの記載があった(1)。さらに、高校の『倫理用語集』には、「何も口にせず」との記述があった(2)。

どうも、水も禁じられているととらえるほうがよさそうである。では、オリンピックの件はどう考えるのか?

「読売新聞」の報告によると、選手が水を飲んでよかったのは、断食期間中に水を飲んでよいからというわけではなく、選手は旅行者の扱いを受けているからのようである(3)。ただし旅行者の場合は、旅行が終われば断食をしなおさなければならない。

義務であっても寛容さがあり、ともに飢えの苦しさを越え、日没後にはお祭りのようにする。まさに神の前の平等を説く、連帯の教えであるように思われた。





(1)http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~islam2/cgi-bin/enc.cgi

(2)『倫理用語集』山川出版社 66ページ。

(3)http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2012/news/ballgame/foot/1/20120802-OYT1T01265.htm

スカートの丈について [イスラーム]

最近、この手のテーマが多いが、ひとえに新聞記事に載っているからである。他意はない。

学校ではスカートが短いと何かと問題になるが、それ以上に大事になる場所もある。「短いスカートの人は立ち入り禁止だ」。インドのカシミール州で、観光客に対してそう告げられたという(1)。イスラーム系組織による警告である。

今回の問題は、ファッションの問題よりもむしろ、規範をとるか、利益を取るかの問題に焦点を当てたい。観光客は重要な収入源だから規制したくないという利益の立場と、肌を見せる服は好ましくないという規範(特に、イスラームとしては)のぶつかりあいである。

ミニスカートの是非はしばし置くも、宗教の教義と世俗の利害が対立することはしばしばある。

『新約聖書』にも、「行って、持っているものをすべて売り、貧しい人に与えなさい」「金持ちが天の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」のように、世俗の利益を固守しようとすることを戒める記述が見られる。

確かに、宗教のもつ高い倫理性や文化が世俗的利益のしもべになるのは、寂しく貧しいことである。他方で、観光が重要な財源となる場合、その増減が死活問題というのもそのとおりだ。いろいろな文化が出会うところでは、新たな文化の生成がある一方、争いもある。

世界には限りないグレーゾーンが広がっている。黒か白かはそう簡単に決められない。幅ほろ句学ぶ必要があるのは、ひとつにはそのためだ。

おそらくありえない話であるが、もし丈の短いスカートをはくことを教義とするなぞの宗教があったらどうなるだろう?そしてもしその宗教に聖戦の概念があったら?恐ろしいことだ。

生徒の皆さんも、気をつけてください。


(1)静岡新聞 7月7日 朝刊


破格の『ルバイヤート』 [イスラーム]

今日の授業ではアニメと引用史料を用いてイスラーム文化の学習をした。アニメでは、10分ほどの短いものを利用して『アラビアンナイト』の一部をなすとされる(異説あり)「アリババと40人の盗賊」を鑑賞した。残酷なグリム童話、ではないが、負けず劣らず残酷なお話でもある(盗賊が殺されたあたり)。剣の舞のシーンや、正直者が救われるというパターンはアラビアンナイト以外の昔話にもしばしば見られる。

文学の中で賛否両論が多かったのが『ルバイヤート』であった。岩波文庫版を閲覧してもらったが、「こういう詩もいい」という意見もあり、「後ろ向きな気がする’(刹那主義的、ということだと思う)」という意見もあった。

確かに『ルバイヤート』は型破りな作品なのである。たとえば、例外はあるがイスラームはアルコールを禁止するとされる。ところがルバイヤートではアルコールを賞賛している。それどころか、すばらしい来世よりも現世の酒暮らしのほうがすばらしいとまで行っている。またさらに、造物主を批判する箇所さえある。なぜ命を作っておいて、その命を壊してしまうのだろうかと。

さらに、ある種の無常観も示されている。「水面に現れた泡のような形相は、やがて水底へ行方も知れず消える」とは『方丈記』を連想せずにはいられないところである。

かと思うと、「地獄から帰ってきた人はいないのに、どうして地獄があるといいきれるのか」と科学的、実証主義的な言葉も述べている。もっとも、作者のウマル=ハイヤームは詩人にして数学者でもあったのだが。三次方程式の解き方をまとめたのも彼の功績である。

以下に、「青空文庫」のウェブページをのせておく。そこで『ルバイヤート』を読むことが出来ます。皆さんは何を思うでしょうか?

青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000288/card1760.html


ルバイヤート (岩波文庫 赤 783-1)

ルバイヤート (岩波文庫 赤 783-1)

  • 作者: オマル・ハイヤーム
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1979/09
  • メディア: 文庫



アルハンブラの思い出 [イスラーム]

授業でアルハンブラ宮殿が登場しました。ナスル朝の都グラナダに建てられた、赤い城という意味を持つ宮殿である。

この宮殿をモチーフにした「アルハンブラの思い出」という曲があることを授業で言ったが、そのメロディがうまく出てこなかった。家に帰ってCDの棚を調べてみたところちゃんとそれが収録されたCDが見つかった。

「アルハンブラの思い出」はスペインのタレルガという人が、アルハンブラ宮殿を訪れたときの印象と感銘をもとに作ったギターの曲であるという。家にあったのは、ギターではなく、ニニ・ロッソ(1)という人のトランペットのバージョンであった。

明日授業のときにもって行きますので、ぜひお聞きください。きっとアルハンブラ宮殿が浮かんでくるはずです。明日はサラディンが授業に登場するので、特に楽しみです。大学時代に見つけたサラディン関係の資料の一部も持参したいと思います。


(1)イタリアのトランペット演奏者。日本の伝統的な歌から各地の民謡、映画音楽までレパートリーは広い。個人的にはかなり好きである。

新聞より イスラームの記事 [イスラーム]

クイズの答えは後日載せます。今回は、授業でイスラームを扱っていることから、それに関連する新聞記事を紹介します。

1、世界最大の『コーラン』(『クルアーン』)公開 (静岡新聞5月15日)
2月にギネスに認定された世界最大の『コーラン』が、公開されているという。たて2メートル、横1,5メートル。重さは800キロ。宝石がちりばめられた表紙という。

私はアラビア語は読めないので、岩波文庫で読んでいます。しかし、アラビア語でない言語による翻訳は、解説書の扱いになります。厳密に言うと、翻訳は禁じられており、外国語によるそれは解説という位置づけになります。

2、メッカの方角に間違いあり (静岡新聞 5月24日)
イスラームでは、礼拝をメッカの方向に向いてする。しかし、トルコのあるモスク(イスラームにおける、寺院的なもの)では、方角を記すくぼみの位置が間違っており、間違った方向に向けって礼拝をしてきたという。これはイスラームの寛容性を考えると、どのような結論が出るのかとても気になる問題であった。


コーラン 上 (岩波文庫 青 813-1)

コーラン 上 (岩波文庫 青 813-1)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1957/11/25
  • メディア: 文庫


これが、日本語による解説書。『コーラン』には、日常の規範が多く記されている。

無差別攻撃論を批判する [イスラーム]

新聞を読んでいたら、驚くべき記事に出くわした。新聞記事を引用しよう。

米統合軍参謀大学(バージニア州)で、過去の歴史に照らし、一般のイスラム教徒に対する無差別攻撃が容認され得るとの講義が行われていたことが17日までに明らかになった(1)


さらに、以下のようなことも記事にあった。

「無差別攻撃も選択肢としてある」 「イスラム教の聖地であるメッカへの攻撃にも(無差別攻撃は)当てはまる(カッコ内は引用者による補足)」 「イスラム教徒について・・・『ユダヤ教徒やキリスト教徒を憎み、決して友人とみなさない』」(2)


ちょうど私たちは、世界史の授業でイスラームの寛容さについて学んできたばかりである。喜捨
(ザカート)による苦しむものの救済や、義務への柔軟な対応、断食の意義などを話した。また、日本にとっても非常にイスラームが身近になっていることを浜松のモスクや留学生、大学の食堂、日本人の身近なイスラーム教徒などの例を用いて説明した。無理解は現実的な意味においてまずいのだと話した。たとえば、宗教上の理由で食べられないものを、知らないがゆえに無理にすすめるのはよろしくないが、知らないとそういったことも起こってしまう。

しかしこの記事は!おろかな!!大学の講義でそんなことをいってよいものか?とはいえ、感情的に議論することは私の求めるものではない。高校世界史の知見やジュネーブ条約の文章をもとに大学の講義内容を批判する。

まず、無差別攻撃は成立しないことをジュネーブ条約追加議定書を引いて議論する。ジュネーブ条約追加議定書は内容が多いが、たとえば「文民(軍人でないもの)は軍事行動から保護される」(3)という趣旨の規定を示している。しかし記事ではテロ行為を行っているのだから、ジュネーブ条約を考慮する必要は必ずしもないと紹介している(4)。確かにジュネーブ条約には「敵対行為に直接参加しているものは保護されない」との規定がある(5)。だが、それをもって無差別攻撃がありうるというのは飛躍しすぎである。なぜなら、ジュネーブ条約追加議定書を読む限り、攻撃の対象になりうるのはテロを行っているものだけだからである。敵対行為に直接参加しているもの=イスラーム教徒一般というのはどうみても無理があるだろう。

また、聖地への攻撃は明らかにありえない。なぜなら、ジュネーブ条約追加議定書において明確に礼拝所の攻撃は禁じられているからである(6)。例外事項は特に書かれていない。なお、東京への空襲などの歴史的事例からメッカ空襲をも正当化することは出来ない。なぜなら、東京空襲はジュネーブ条約追加議定書成立以前の出来事だからである。成立したいまとなっては、過去を用いて現在の蛮行を合理化することは出来ない。

もっというと、ジュネーブ条約は宗教をかなり尊重している。たとえば、捕虜となっても宗教上の実践を行えるように保護すべきということや医療関係者と同様に宗教関係者も保護されなければならないと明記されている(7)。特に「どの宗教の」と入っていないことに注目してほしい。特定の宗教を名指しして無差別攻撃を容認するなどというのは、ジュネーブ条約の精神に反しているのは明確ではないか。

最後に、イスラームと異教の関係を見る。ここからは高校世界史の知識でついてこられる。確かに、イスラームは十字軍においてキリスト教徒と争った。しかし、近年の研究では、十字軍の時代にもムスリム(イスラーム教徒)とキリスト教徒が共存していた事例が報告されている(8)。さらに、イスラーム国のムガル帝国では、偶像崇拝を行うヒンドゥー教徒に対して税金の免除さえも行うという寛容性を見せている。また、歴史的には制約を課すものの、キリスト教徒やユダヤ教徒も「啓典の民」として存在できた。少なくとも、キリスト教徒は、無差別攻撃してよいという対象ではなかったはずである。

「自分たちと違う宗教だから」「自分の国じゃないから」・・・そんな気持ちがあるなら、ちょっと怖い。私たちは勉強によって、想像力の翼も育てたい。高校や大学で歴史や地理、古典、外国語といったものを学ぶのは、ひとつには、「いま、ここ」だけしか見えない暗闇を抜け出すためである。「いま、ここ」だけでいいとするなら、それを突き詰めた究極形は「自分だけよければ」となってしまうぞ。

本来は皆さんが世界史を学ぶためのツール(本、DVD,音楽、アイテム・・・)を紹介するなどを通して、皆さんと世界史の世界をつなぐ橋を目指すことがこのブログの理念であった(と心の中で理念をたてていた)が、今回はこういう記事を書かずにはいられなかった。ご容赦を。



(1)http://sankei.jp.msn.com/world/news/120518/amr12051811230001-n1.htm(引用日時 5月19日)。大学生の皆さんのために。引用するときには必ず出典を挙げなければならない。

(2)静岡新聞、5月19日朝刊。

(3)http://www3.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdf/B-H1617-017.pdf 外務省による紹介。

(4)(2)に同じ。

(5)(3)に同じ。

(6)(3)に同じ。

(7)(3)に同じ。

(8)商人の交流、両者のチェスの記録、ムスリムとキリスト教徒の同盟などの事例がある。
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